1872年から73年の冬は厳しく、すでにバッファローを猟り尽くし、食べ物が無く飢えたファースト・ネイションのナコタ族は、南に向かって480キロの長い移動の末、多くの仲間を失いながら地形の良いサイプレス・ヒルズに辿り着いた。
当時のカナダ西部は無法地帯。アメリカ人交易商人、アベル・ファーウェル(Abel Farwell)と、モーゼス・ソロモン(Moses Solomon)は、サイプレス・ヒルズの南にそれぞれ、違法のウイスキー交易所を経営していた。
ナコタ族は他の部族達同様、この交易所の近くにキャンプをはる。
同じ頃、モンタナのフォート・ベントン(Fort Benton)の郊外で、オオカミ狩りたちの馬が40頭盗まれた。オオカミ狩りたちは、犯人を追ってカナダへ入り、最終的にファーウェルとソロモンの交易所に辿り着く。
それよりも少し前のこと、交易商人の馬が1頭居なくなった。馬は盗まれたのでなく逃げ出しただけで、ナコタ族の1人が見つけて交易所に連れ戻すと、お礼としてウイスキーのボトルを渡される。
しかしオオカミ狩り達が辿り着いた日、再び交易所の馬が1頭居なくなった。交易商人は、今度はナコタ族がウイスキーを貰う為に故意に盗んだのではないかと疑いだす。
その日は朝から誰もがウイスキーを飲んでいて、昼には相当酔っぱらっていたため、あっと言う間にナコタが馬を盗んだ、ということになってしまった。
その前に馬を40頭盗まれているオオカミ狩りたち、馬を1頭ナコタに盗まれたと思っている交易商人達、そしてヨーロッパ人とファースト・ネイションの混血で、近くにキャンプをはっていたメイティたちは一緒になってナコタを挑発した。
その頃、別の部族が交易商人の馬を発見。馬は盗まれたのではなく、再び逃げ出しただけだった。争いを食い止めるため、急いで馬を連れ戻そうとするが、時既に遅し。
挑発が最高潮に達した時、オオカミ狩り達はナコタ族に向かって銃を撃ち放つ。男も女も子供達も関係なく撃ち放たれる銃、弾丸から身を守るために逃げ回るナコタ族達。
オオカミ狩りの1人、エド・ルグレース(Ed LeGrace)が殺されたことがきっかけで、殺戮は終結。
この日一日で、少なくとも23人のナコタ族が殺され、殺戮の傷によって後で亡くなった数は100人以上いたと言われている。
これが、勘違いと通訳の誤解とアルコールが引き金になって起こった、1873年6月1日の『サイプレス・ヒルズ大虐殺』。
このニュースは、あっという間に広がり、アメリカのワシントンへと届く。
カナダ西部の無法地帯を懸念するアメリカは、オタワへ『自分の国をコントロール出来ないのであれば、我々が西部を支配する』と、プレッシャーをかける。
慌てたオタワ(カナダ:東部4州による、ドミニオン・カナダ)は、急遽ノースウエスト・マウンテッド・ポリス(北西部騎馬警察、現ロイヤル・カナダ・マンテッド・ポリス)をサイプレス・ヒルズに送り込み、治安維持のためのフォート・ウォルシュ(Fort Walsh)を建設した。
フォート・ウォルシュでは、虐殺に関わった人物を逮捕、裁判を行ったが、すべて証拠不十分のために特定の人物をさばく事は出来なかった。しかしこの時、無法であった北西部に初めて法が生まれたとして、カナダの歴史上非常に重要なため、『サイプレス・ヒルズ大虐殺』の行われた場所とフォート・ウォルシュは、カナダ国定史跡に認定されている。
因に、オオカミ狩りたちの馬を盗んだのは、クリー族だと言われている。
ということで、昨日のドライブの末行き着いたのは、サスカチュワン州にあるフォート・ウォルシュ。
ビジター・センターに着くと、丁度ツアーバスが出る所だった。
バスは『サイプレス・ヒルズ大虐殺』の現場に行く便と行かない便があり、行く便を選ぶべし。
バスの運転手さんがガイド(ガイドが運転していると言った方が良い)になって、快調にジョークを飛ばしながら、途中の見所も含めて細かい説明をしてくれる。そして最初に連れて行ってくれるのが『サイプレス・ヒルズ大虐殺』の現場とウイスキー交易所。

ツアーバスはスクールバスでした。

虐殺が行われた場所。 丘と丘の間のこの様な低地を、クーリー(Coulee)という。
オオカミ狩りと交易商人達の銃はマルチ・ショットだったのに対し、ナコタの銃はシングル・ショットだったため、太刀打ち出来なかった。

左赤丸がソロモンの交易所、右がファーウェルの交易所。
共にオリジナルを元に再建築中。ソロモンの交易所は、大虐殺後に殺されたオオカミ狩りエド・ルグレースの遺体を埋めて燃やされたが、現在建て直された交易所の床下には、今も遺体が安置されたままになっている。
ウイスキーの交易は違法だったけれど、この地は無法であったため、誰も気に留める者は居なかった。
交易商人達は、ウイスキーを水で薄め偽物の色と味をつけてバレないようにし、高価な毛皮と交換していた。

殺戮現場を見た後は、フォート・ウォルシュへ。


ツアーが到着するのを待っていた、マウンテッド・ポリスの衣装を着たお兄さん。
左のお兄さんがガイドで、右のお兄さんはツアー客の中から子供を3人程連れて姿を消した。
いつもは自由に歩き回ってみる方が気楽なので、ガイド付きツアーには参加しないのだけれど、ここのガイドツアーはかなりお勧めです。ガイドツアーに参加してこそ、ここへ来た意味があると言っても良い程。

しばらくすると、別のポリスさんが登場。この人はフォート内の法廷で裁判をする人。
いつの間にか連れ去られた子供達がポリスになっていました。
この後、無理矢理逮捕された子供たちのお父さんプラス、適当に選んだ人を法廷で裁判にかける(当時の裁判を再現する、観光客参加型法廷劇)ことになるのだけれど、逮捕された3人も与えられた台詞を読んだりアドリブで対処したりして、ちゃんと演技していたのには関心しました。
私たちは法廷の見物人役で、立ったり座ったりくらいだったけれど、台詞を与えられたお父さんたちは素人とは思えないくらい素晴らしい演技でした。

牢屋。

マウンテッド・ポリスのテント。

フォートの中はこんな感じ。
外から見るよりも、中に入った方が面白い。
このフォートがクーリー(丘の下)に造られたのは、軍隊のフォートが周りから中の見えない丘の上に造られたのとは逆に、上から見下ろせ、皆から警察が見える事により治安を守ろうとしたため。

若い警察官の部屋。上司のベッドは毛布だけれど、こちらはバッファローの毛皮。こっちの方があたたかそうですが。
フォート・ウォルシュをたっぷりと満喫した後は、

ちょっと北へ向かいます。
この辺りではかなり有名な、ワイナリー。

何もない草原の中にこつ然と存在。
有名なだけあって、混んでいました。食事も出来るレストランもついています。


ちゃんと葡萄も栽培中。
しかしやはり寒すぎるのか、テスト栽培で4年目らしいです。
ここのワイナリーのワインは殆ど地元で穫れるフルーツで造るフルーツワインだけれど、普通のワインも置いてあった。ただし、私が見たのは、葡萄を他州から輸入して造ったもの。
ここで葡萄が収穫出来るなら、アルバータでもできそう。
明日はエドモントンへ帰ります。


当時のカナダ西部は無法地帯。アメリカ人交易商人、アベル・ファーウェル(Abel Farwell)と、モーゼス・ソロモン(Moses Solomon)は、サイプレス・ヒルズの南にそれぞれ、違法のウイスキー交易所を経営していた。
ナコタ族は他の部族達同様、この交易所の近くにキャンプをはる。
同じ頃、モンタナのフォート・ベントン(Fort Benton)の郊外で、オオカミ狩りたちの馬が40頭盗まれた。オオカミ狩りたちは、犯人を追ってカナダへ入り、最終的にファーウェルとソロモンの交易所に辿り着く。
それよりも少し前のこと、交易商人の馬が1頭居なくなった。馬は盗まれたのでなく逃げ出しただけで、ナコタ族の1人が見つけて交易所に連れ戻すと、お礼としてウイスキーのボトルを渡される。
しかしオオカミ狩り達が辿り着いた日、再び交易所の馬が1頭居なくなった。交易商人は、今度はナコタ族がウイスキーを貰う為に故意に盗んだのではないかと疑いだす。
その日は朝から誰もがウイスキーを飲んでいて、昼には相当酔っぱらっていたため、あっと言う間にナコタが馬を盗んだ、ということになってしまった。
その前に馬を40頭盗まれているオオカミ狩りたち、馬を1頭ナコタに盗まれたと思っている交易商人達、そしてヨーロッパ人とファースト・ネイションの混血で、近くにキャンプをはっていたメイティたちは一緒になってナコタを挑発した。
その頃、別の部族が交易商人の馬を発見。馬は盗まれたのではなく、再び逃げ出しただけだった。争いを食い止めるため、急いで馬を連れ戻そうとするが、時既に遅し。
挑発が最高潮に達した時、オオカミ狩り達はナコタ族に向かって銃を撃ち放つ。男も女も子供達も関係なく撃ち放たれる銃、弾丸から身を守るために逃げ回るナコタ族達。
オオカミ狩りの1人、エド・ルグレース(Ed LeGrace)が殺されたことがきっかけで、殺戮は終結。
この日一日で、少なくとも23人のナコタ族が殺され、殺戮の傷によって後で亡くなった数は100人以上いたと言われている。
これが、勘違いと通訳の誤解とアルコールが引き金になって起こった、1873年6月1日の『サイプレス・ヒルズ大虐殺』。
このニュースは、あっという間に広がり、アメリカのワシントンへと届く。
カナダ西部の無法地帯を懸念するアメリカは、オタワへ『自分の国をコントロール出来ないのであれば、我々が西部を支配する』と、プレッシャーをかける。
慌てたオタワ(カナダ:東部4州による、ドミニオン・カナダ)は、急遽ノースウエスト・マウンテッド・ポリス(北西部騎馬警察、現ロイヤル・カナダ・マンテッド・ポリス)をサイプレス・ヒルズに送り込み、治安維持のためのフォート・ウォルシュ(Fort Walsh)を建設した。
フォート・ウォルシュでは、虐殺に関わった人物を逮捕、裁判を行ったが、すべて証拠不十分のために特定の人物をさばく事は出来なかった。しかしこの時、無法であった北西部に初めて法が生まれたとして、カナダの歴史上非常に重要なため、『サイプレス・ヒルズ大虐殺』の行われた場所とフォート・ウォルシュは、カナダ国定史跡に認定されている。
因に、オオカミ狩りたちの馬を盗んだのは、クリー族だと言われている。
ということで、昨日のドライブの末行き着いたのは、サスカチュワン州にあるフォート・ウォルシュ。
ビジター・センターに着くと、丁度ツアーバスが出る所だった。
バスは『サイプレス・ヒルズ大虐殺』の現場に行く便と行かない便があり、行く便を選ぶべし。
バスの運転手さんがガイド(ガイドが運転していると言った方が良い)になって、快調にジョークを飛ばしながら、途中の見所も含めて細かい説明をしてくれる。そして最初に連れて行ってくれるのが『サイプレス・ヒルズ大虐殺』の現場とウイスキー交易所。

ツアーバスはスクールバスでした。

虐殺が行われた場所。 丘と丘の間のこの様な低地を、クーリー(Coulee)という。
オオカミ狩りと交易商人達の銃はマルチ・ショットだったのに対し、ナコタの銃はシングル・ショットだったため、太刀打ち出来なかった。

左赤丸がソロモンの交易所、右がファーウェルの交易所。
共にオリジナルを元に再建築中。ソロモンの交易所は、大虐殺後に殺されたオオカミ狩りエド・ルグレースの遺体を埋めて燃やされたが、現在建て直された交易所の床下には、今も遺体が安置されたままになっている。
ウイスキーの交易は違法だったけれど、この地は無法であったため、誰も気に留める者は居なかった。
交易商人達は、ウイスキーを水で薄め偽物の色と味をつけてバレないようにし、高価な毛皮と交換していた。

殺戮現場を見た後は、フォート・ウォルシュへ。


ツアーが到着するのを待っていた、マウンテッド・ポリスの衣装を着たお兄さん。
左のお兄さんがガイドで、右のお兄さんはツアー客の中から子供を3人程連れて姿を消した。
いつもは自由に歩き回ってみる方が気楽なので、ガイド付きツアーには参加しないのだけれど、ここのガイドツアーはかなりお勧めです。ガイドツアーに参加してこそ、ここへ来た意味があると言っても良い程。

しばらくすると、別のポリスさんが登場。この人はフォート内の法廷で裁判をする人。
いつの間にか連れ去られた子供達がポリスになっていました。
この後、無理矢理逮捕された子供たちのお父さんプラス、適当に選んだ人を法廷で裁判にかける(当時の裁判を再現する、観光客参加型法廷劇)ことになるのだけれど、逮捕された3人も与えられた台詞を読んだりアドリブで対処したりして、ちゃんと演技していたのには関心しました。
私たちは法廷の見物人役で、立ったり座ったりくらいだったけれど、台詞を与えられたお父さんたちは素人とは思えないくらい素晴らしい演技でした。

牢屋。

マウンテッド・ポリスのテント。

フォートの中はこんな感じ。
外から見るよりも、中に入った方が面白い。
このフォートがクーリー(丘の下)に造られたのは、軍隊のフォートが周りから中の見えない丘の上に造られたのとは逆に、上から見下ろせ、皆から警察が見える事により治安を守ろうとしたため。

若い警察官の部屋。上司のベッドは毛布だけれど、こちらはバッファローの毛皮。こっちの方があたたかそうですが。
フォート・ウォルシュをたっぷりと満喫した後は、

ちょっと北へ向かいます。
この辺りではかなり有名な、ワイナリー。

何もない草原の中にこつ然と存在。
有名なだけあって、混んでいました。食事も出来るレストランもついています。


ちゃんと葡萄も栽培中。
しかしやはり寒すぎるのか、テスト栽培で4年目らしいです。
ここのワイナリーのワインは殆ど地元で穫れるフルーツで造るフルーツワインだけれど、普通のワインも置いてあった。ただし、私が見たのは、葡萄を他州から輸入して造ったもの。
ここで葡萄が収穫出来るなら、アルバータでもできそう。
明日はエドモントンへ帰ります。




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