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今回のサスカチュワン小旅行の最終日。

結局黒猫を一度も見かける事の無いまま、ライオン・ヘアカットの可愛いホステス、シュレッダーちゃんに別れを告げて、
シュレッダー
(窓の外の小鳥に夢中のシュレッダーちゃん、夕べのベタ甘えぶりが別猫のようにシレッとしています。)

サスカトゥーンから45分程北へドライブしてバトッシュ国立歴史史跡(Batoche National Historic Site)へ向かう。

バトッシュ
サイト・マップ。
エリア1: 案内所
エリア2: 教会
エリア3: カナダ軍野営地
エリア4: 旧バトッシュ村
そして、川はサウス・サスカチュワン・リバー。

バトッシュは、マニトバを追われたメィティ達が新たな定住の場として開拓した村。
目の前のサウス・サスカチュワン・リバーの向かいには、ハドソン・ベイ・カンパニーが建てた毛皮の交易所であるフォート・カールトン(Fort Carlton)がある。
1872年、メィティの商人ザヴィエ・ルタンドレ(Xavier Letendre)はここでフェリー・サービスを始め、その後商店などのビジネスを広げて行く。彼のビジネスは成功し、村は1200人の人口を誇る北西部の商業の中心地として栄えた。そしてザヴィエのニックネームから、バトッシュ(Batoche)と呼ばれるようになる。

しかしカナダ政府がマニトバに続き、再び土地分配法をイギリス式にしたことや、メィティに対する尊重に欠けていたことなどから不満は高まり、かつてマニトバの反乱を率いて敗北、モンタナに潜んでいたリーダー、ルイ・リエルを呼び寄せ、1885年リエルの元再び決起する。(『1885年のカナダ北西部の反乱』簡単な概要はこちらの過去記事で。)
メィティ軍は、1885年の3月にダック・レイクで北西部騎馬警察隊を攻撃、勝利。翌月4月、フィッシュ・クリークではカナダ軍援軍と対決、五分五分の戦いの後、カナダ軍はバトッシュ入りする。
5月、800人以上のカナダ軍に対し、300人以下のルイ・リエル指揮下のメィティ軍は、必死の攻防の末敗北。ルイ・リエル自らカナダ軍へ投降し反乱は終結した。4日間の戦闘の末、亡くなった人の数は25名以上だった。

戦闘後、村はほぼ壊滅。その後再建されたが、『反逆者』のレッテルを貼られたメィティたちのビジネスは苦戦、かつての繁栄を取り戻すことは出来なかったようだ。カナダ・パシフィック鉄道は、新しい移民エリア(レジャイナ方面)へ鉄道を通すことにし、最終的にバトッシュの住民は新たな住居を求めて西や北へ散らばっていった。


バトッシュ
バトッシュ国立歴史史跡の中は広く、主に草原地帯。そしてオリジナルの建物は3つしか残されていない。


バトッシュ
そのうちの一つ、エリア2にあるカトリック教会。


バトッシュ
教会の中は、質素ながら奇麗に飾られている。1800年当時からのオリジナルの絵も。


バトッシュ
こちらは神父の家。
この建物が先に立ち、教会は後から建てられた。入り口側の2階付近の外壁に、1885年の戦いの際に打ち込まれた弾丸の跡が、いくつか残っている。


バトッシュ
この家は、教会が建てられる前には教会として、それから学校、更に郵便局の役目も果たしていた。


教会と神父の家は、案内人付きでのみ見学出来る。
バトッシュ
案内人はお客さんが来ると最初に教会、そして神父の家に連れていってくれるが、時間割りが無いので、新しいお客さんがコンスタントに来ると休み無く2軒を行ったり来たり。
案内のおじさんはメィティの方で、確かこの家の学校で教師をしていた人の子孫だと言っていた。


教会の後は、近くにある墓地へ。
バトッシュ
この墓地はカナダの史跡ではなく、現在もメィティ・コミュニティーの管理下にある。

立ち入りは自由。
バトッシュ
1885年の戦いで亡くなったメィティ兵士の集団墓地。


墓地見学の後、少し遊歩道を歩く。
バトッシュ
ちらっと見えているのは、サウス・サスカチュワン・リバー。


さて、エリア4の旧バトッシュ村へは歩いても行けるが、近くに別の駐車場もあるので、車で行って見た。
バトッシュ
かつてメイン通りだった道に沿って、建物の基礎や地下室だったらしい名残のみが残されている。


バトッシュ
1885年の戦い直後のバタッシュ村。戦で大分焼かれてしまったというが、せめてこれらの建物だけでも残されていたら良かったのに。メンテナンスは大変でしょうが、このサイトがより魅力的になったはず。
建物がすぐに取り壊された理由は、新しく建てる家の建築材として再利用していたため。


バトッシュ
旧バトッシュ村のメイン通りから、サウス・サスカチュワン・リバーへ降りる道は林の間に今も残っている。
ここを、荷馬車が行ったり来たりしていた。


バトッシュ
林の道を降りて行くと、川沿いの旧船着き場へ出る。現在は少し広くなっているだけで何も残っていないが、少し北へ行ったあたりに、今もフォート・カールトンへ渡るフェリー・サービスがあるらしい。

時間がなかったので多分行かなかったとは思うが、この夏の長雨で川が氾濫し、フォート・カールトンは閉鎖中だった。


そして、バトッシュ国立歴史史跡で予定よりも時間を取ってしまったので遅くなったものの、
エドモントン
日没ギリギリの9時半、なんとかエドモントンへ到着。



帰宅して以来、エドモントンもようやく随分夏らしくなりました。

たった2泊3日なのに、留守から帰るといつも野菜が急成長して見える。
今回も、翌日には沢山の野菜を収穫できました。
野菜


旅行記にお付き合いいただき、ありがとうございました!
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朝から快晴の夏日より。
昨日のフレンチマン・ビュートから、3号線を東へ、21号線を南へ走って再びイエローヘッド・ハイウェイに戻り、バトルフォードへ向かう。フレンチマン・ビュートからバトルフォードまでの運転時間はおよそ1時間半。

ノースサスカチュワン・リバーとバトル・リバーが交差する街、バトルフォード。ノースサスカチュワン・リバーの南側をバトルフォード、北側の街はノース・バトルフォードとなっているが、二つの街は合わせてザ・バトルフォーズ(The Battlefords)と呼ばれている。
開拓時代には北西部準州の州都だったというバトルフォード。結局ウィニペグからの鉄道を南へ通すことになっとことに加えアメリカを警戒し、州都は南のレジャイナに移った。現在、煙突と基礎だけという政府の建物跡が、街の外れにひっそりと残されている。
アウトドア以外にあまり観光客が訪れそうもないこの街の、最大のアトラクションである国立歴史史跡、フォート・バトルフォード(Fort Battleford)
今回の旅の2大目的地の一つだ。


1876年に建てられたフォート・バトルフォードは、先住民族との毛皮の交易とカナダ北西部の治安維持の為に北西部騎馬警察が駐屯したフォート。
『1885年のカナダ北西部の反乱』(昨日の記事を参照)では、クリー族の平和酋長ポンド・メーカーが話し合いを持とうとしたが、お互いに信用出来ずにフォートの扉は開かれる事無く話し合いは決別した。”インディアン”の襲撃を恐れた500人程の付近の住民をかくまったことでも知られている。実際には襲撃は無く、カナダ軍が援軍に来た時もフォート・バトルフォードでは争いは無く、実際に戦いがあったのは、バトルフォードから少し南の、クリー族のテリトリーであるカット・ナイフ・ヒルだった。


フォートの観光は、入館料のみで自由に見て回る事も出来るが、3ドルちょっと足して、1885年当時の衣装に身をまとった案内人付きのツアーを楽しむ事が出来る。
ツアーの案内人は北西部騎馬警察、クリー族、毛皮交易商人、住民などから1人を選ぶ。


フォート・バトルフォード
フォートの内側には、1800年代のオリジナルの建物が4つ。


フォート・バトルフォード
一番立派な、司令官の家。


フォート・バトルフォード
家の中に、バッファローの角で作った椅子がありました。


フォート・バトルフォード
この棚に置いてある漬け物は、なんと1800年代当時のもの。
ぜったいにフタを開けたくないですね!?


フォート・バトルフォード
私たちが選んだ、住民ガイドさん。


フォート・バトルフォード
こちらは、馬屋。
当時東南アジアブームだったとかで、建物の屋根が中華風?


フォート・バトルフォード
こちらは刑務所です。


フォート・バトルフォード
この独房は軽犯罪者用で、重罪犯の独房は全面鉄板張りで、穴を掘って脱走出来ないようになっている。


フォート・バトルフォード
フォート内では、大砲の実演も。実際は火薬を爆発させるだけだが、音が凄い。


さて、およそ2時間に渡るの案内人付きのフォート・バトルフォード・ツアー堪能した後、
西部開拓博物館
ノース・バトルフォードにある西部開拓博物館(Western Development Museum)へ。
サスカチュワン州内に4つある西部開拓博物館の一つで、農業がテーマ。


年代を追って様々なものが展示されてある本館以外に、屋外の建物館も見どころ。
西部開発博物館
1900年初期の商店街。 
フォート・エドモントン・パークのミニチュア版みたい。


西部開発博物館
農業テーマなので、農耕機具も展示。


西部開発博物館
こちらはウクライナ式ハウスと正教会。
この日は気温が36度近くまで上がってかなり暑かったが、茅葺き屋根のウクライナ式ハウスの中は冷房が効いているかのように涼しかった!


西部開発博物館
ウクライナ正教会の中。


西部開発博物館
こちらは、手前がプロテスタント教会、その向こうに見えるのはローマン・カトリック教会。


西部開発博物館
ローマン・カトリック教会の中。出来る範囲でゴージャス。


西部開発博物館
プロテスタント教会の中。とってもシンプル。

この西部開拓博物館、思っていたよりも充実していてかなり感心しました。
暑かったので屋外建物館を見て回るのにかなりバテてしまったけれど、行ってみて良かったと思いました。

あと、ノース・バトルフォードには、有名なファースト・ネイション・アーチストのアレン・サップ美術館もあるが、こちらは時間が無くて寄る事が出来なかった。ちょっと残念!


バトルフォードを満喫した後は、次の目的地、サスカトゥーンへ向かいます。

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カナダ西部、プレーリー地方の歴史は浅い。
アルバータ州やサスカチュワン州には、国立や州立の歴史公園や史跡などがあるが、史跡の殆どはヨーロッパ人が先住民族と毛皮を交換するために建てた交易所と北西部騎馬警察、現ロイヤル・カナダ・マンテッド・ポリスの治安所であるフォート跡。
そして、昨年訪れたサイプレス・ヒルズにあるフォート・ウォルシュ同様に、先住民との間でカナダの歴史上重要な争いがあったフォートは、現在カナダ国営の歴史資料跡として保存されている。

毛皮交換と先住民族無しには語る事が出来ないカナダ西部の歴史。
今年もまた、そんな歴史に触れる小旅行に行ってきました。
今回のターゲットはサスカチュワン。
『1885年のカナダ北西部の反乱』に関わった史跡を訪ねる2泊3日の旅です。


ここで、『1885年のカナダ北西部の反乱』について簡単に。
カナダの先住民族とヨーロッパ人(多くがフランス人)との混血民族メィティ( Métis)が、度重なる政府への不満を爆発させて起こした反乱。バッファローの半絶滅による飢餓や自然災害以外にも、メィティ独自の土地分配法(全ての住民が川沿いに土地を得る事が出来るように川から細長く土地を分ける)を、カナダ政府がイギリス方式(川とは関係なく、全て正方形に切って分ける)にした事への怒りなども大きな要因となった。メィティは1869年から70年にマニトバで最初の反乱を起こしており、サスカチュワンは2度目の反乱。
同じ頃、メィティ達の反乱のことを聞きつけた、付近の先住民族である草原のクリー族達も、交易所と交わした契約通りに、約束していた食べ物や薬などを、きちんと渡してくれないカナダ政府への怒りが爆発し、自分たちも反乱しようと思い立つ。クリー族の2つのグループの平和酋長ビッグ・ベアーとポンド・メーカーに変わり、反乱を率いたのは、戦士酋長であるワンダリング・スピリットとファイン・デー。(クリーの伝統では、平和と戦争を担う二人の酋長がいて、戦いに関しては戦士酋長の決定に任されていた。)
上記二つの反乱は独立して起こったものだが、政府はメィティとクリー族が協力して反乱を起こしたと考え、カナダ軍を初めて派遣した。

カナダ軍の力に反乱はほどなく終結、1985年3月26日から5月12日の間に、北西部準州、現在のサスカチュワン州内9カ所での戦いで、双方あわせて128名の命が失われた。
そして裁判では、メィティのリーダー、ルイ・リエル(Louis Riel)を絞首刑に、平和酋長と戦士酋長のシステムを知らないカナダ政府により、戦争酋長ではなく平和酋長であるビッグ・ベアとポンド・メーカーも反乱の罪により処刑されてしまう。後に戦士酋長であるワンダリング・スピリットも処刑されたが、ファイン・デーだけは捕まることなく、家族と幸せに暮らし続けたという。


..というわけで、
初日の目的地は、フレンチマン・ビュート(Frenchman Butte)。
エドモントンからイエローヘッド・ハイウェイを東へおよそ230km、アルバータとサスカチュワンの州境の街ロイドミニスター(Lloydminister)から州境線を約25km北上、3号線から再び西へ入って30km程走ったところにある、ノース・サスカチュワン・リバー沿いの小さな村。
ここに、クリー族の戦士酋長ワンダリング・スピリットとカナダ軍が戦った跡が、フレンチマン・ビュート国立歴史跡(Frenchman Butte Historic Site)として残されているが、何故かどうしても見つける事が出来ずに、代わりに辿り着いたのは、

フレンチマン・ビュート
フレンチマン・ビュート村にあるフレンチマン・ビュート博物館
オリジナルの家などを含めた9つのビルからなる博物館で、一応、『1885年の跡』となっているように、メイン館ではフレンチマン・ビュート反乱の歴史などが分かる展示もある。が、多くの骨董品は、ロイド・ファーマン(Lloyd Furman)という人の収集品で、博物館に寄贈されたもの。
この写真は旧CN鉄道の駅舎で、メイン館のようだがそうではない。


博物館見学は、案内人付きで。
最初に連れて行かれたメインの博物館の中は、こんな感じ。

フレンチマン・ビュート


フレンチマン・ビュート

個人の収集物とは思えない、大量の骨董品。
ロイドさんの寄贈品は最初、CN鉄道の駅舎に飾られていたが、最終的には増え過ぎて、ロイド・ファーマン・ビルという建物を建てて、そこに展示。それが博物館ツアーで最初に連れて行かれるメイン館。


最初の博物館であった駅舎の中にある、駅長さんが暮らしていた部屋。

フレンチマン・ビュート


フレンチマン・ビュート
キッチン。ロイドさんの収集品だけでなく、村人からの(不要品の)寄贈なんかも結構多かったらしいが、現在ではあまり寄贈は無くなった模様。


次に連れて行かれた、
フレンチマン・ビュート
リーア・ハウス(Leer House)。リーアさんという家族が住んでいた手作りの個人邸で、1928年築の質素な木造家屋。


フレンチマン・ビュート
室内。右の方にある木の箱は冷蔵庫。


それから、外から見て家かと思った建物は、連れて行ってもらったら、
フレンチマン・ビュート
学校だった。こちらは1926年築。


フレンチマン・ビュート
博物館の前の集落も博物館の一部かと思ったら、ただの住居でした。


フレンチマン・ビュート
フレンチマン・ビュート村は可哀想なくらい錆びれているけれど、思わず『可愛い!』と叫んでしまった、小さな郵便局。


博物館はそれなりに面白かったが、1885年の反乱の歴史というよりは、フレンチマン・ビュート村の個人史みたいな感じだった。
それから、フレンチマン・ビュートの少し西に、ハドソン・ベイ・カンパニーが1830年に建てた毛皮の交易所で、1885年の北西部の反乱の一舞台となったフォート・ピット(Fort Pitt)史跡公園があるが、こちらは国立ではなくて、州立。今回は国立史跡をターゲットとしていたため、立ち寄らなかった。

次は、更に東のバトルフォードへ向かいます。

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エドモントンから南へ約70キロ程のところにある、小さな町ワタスクウィン(Wetaskiwin)で、開拓者の日(パイオニア・デー)とローハイド・ロデオのお祭りがあると聞きつけ、デニースを空港に送った帰りに寄ってみることにした。
8時15分頃に彼女を空港に落とした後、ネットで入手したイベントのスケジュール表を持ってワタスクウィンに着いたのは朝9時。まるで、この日をもの凄く楽しみにしていたかのように、最初のイベント開始時間と同時にレイノルズ・アルバータ博物館(Reynolds-Alberta Museum)へ到着。

レイノルズアルバータ博物館
州立のこの博物館には、1890年代から1970年代までのアルバータの車や飛行機、工業・農業機械とトラクターなどが保存展示されている。
この博物館の敷地で、パイオニア・デイの最初のイベント『ヒストリー・ロード』がオープン。車の博物館に相応しい車の屋外展示で、博物館所有の車とクラシック・カー・マニアの自慢の車を年代順に並べて披露。
昨年のカナダ・デーに、ウクライナ文化遺産村でお披露目があったエドモントン・クラシック・スポーツカー・クラブはもちろんのこと、アルバータ州内の様々なクラシック・カー・クラブが大集合。私がこれまでに見た中で、最も大きなクラシック・カー・ショウだ。
『ヒストリー・ロード』というタイトル通り、参加車は時代を追って見る事が出来るように整列。


ヒストリー・ロード
『ヒストリー・ロード』の展示は1901年の車から。
私は特別車好きでもなければ詳しくもないので細かくは触れませんが、この頃の車と言えば大体アメリカ車のフォードだろうと思います。


ヒストリー・ロード


ヒストリー・ロード
20年代から30年代の乗用車。これは、フォードのモデルTでしょうか。


ヒストリー・ロード
50年代に入ると、デザインが急変化。


ヒストリー・ロード
更に、50、60、70年代と続きます。


ヒストリー・ロード
それから、カスタム・メイドの車の展示もありました。
こちらは、フォルクスワーゲンのビートルをカスタム・メイドしたもの。


とにかく沢山あり過ぎで、50年代の車までしか見なかったけれど、私が奇麗!と思った1台。
ヒストリー・ロード
外装も内装もピンクと白で統一。展示中もオーナーのおじさんが熱心に磨いていて、ピカピカに光っていた。



以前にも一度来た事があるのだが、ついでに博物館の中もざっと見た。
レイノルズアルバータ博物館
こちらは、飛行機が収納展示されている別館。


レイノルズアルバータ博物館


そして、車と農業用のトラクターなどがメインの博物館の本館。
レイノルズアルバータ博物館


レイノルズアルバータ博物館


レイノルズアルバータ博物館
こうして見ると、なんだかわけが分かりませんが、


レイノルズアルバータ博物館
当時の街並を再現した会場に車が展示されていたりします。
そして会場の中央に、農工業器具やトラクターなどを展示してある。


レイノルズアルバータ博物館
これは、1929年に作られた雪道用のスキーとチェーンのセット。フォードのモデルTに装着用として作られたもの。とても重そうです。


レイノルズアルバータ博物館
そして、こちらは1932年カナダ産のスノー・プレイン。タイヤの代わりにスキー、後ろにプロペラが付いている。完全に雪用。
プレインと名付いているが、飛ぶというよりは雪上を滑るものだったようだ。柔らかい雪で時速40キロ、堅い雪の上では80キロの早さで滑ることが出来たらしい。


レイノルズアルバータ博物館
出口の近くにある、ワークショップ。
ここで博物館用の車の修理などをしているようだ。


さて、博物館で大分時間を取った後、他のイベントを見るためにワタスクウィンのダウンタウンへ。
ワタスキウィン
ヒストリックといっても、100年ものの古い建物が沢山あって奇麗な通りというわけではなかった。この写真は、メイン通りで最も目を引いた建物。
地味な商店街ですが、このメインストリートで、サイドウォーク・セールやパイオニア・デイ・パレードがあるというので、ちょっと楽しみにして寄ってみたのに、ひっそりとしている。

メインストリートが歩行者天国になって、路上に色々と出店があるのかと思ったら、単にメインストリート沿いの店が特別セールをしているだけだった。
そして、パレードは博物館に居る間に終わってしまったようだった。


仕方がないので、『モデル・トレイン・デー』というのに惹かれて、メイン通りにあるヘリテージ博物館へ。
ワタスキウィン
しかし、『モデル・トレイン』とは、子供用のおもちゃ(プラモデル)だった。本物の古い電車が展示されているのか?と思って入ったんだけれど....
一応ヘリテージ博物館の中も拝見。主に子供向けだが、2階の展示室ではワタスクウィンの開拓の歴史が分かるようになっていて、それなりに面白かった。ワタスクウィンにはスウェーデン移民が結構多かった、という事実も初めて知りました。また、ハテライト教徒のコロニーも大きい様です。


最後に、ユナイテッド教会主催のガレージセールに顔を出したが、売っているのはがらくたばかり。
結局、ロデオが始まる夜までワタスクウィンに留まるのもなんなので、ガレージセールの後、ワタスクウィンから東へ30キロ程の所にある、キャムローズ(Camrose)という町へ。
ここでは市内には行かず、自然の中でのお散歩が目的。

キャムローズ
ミラー・レイク・パーク。小さな池の周りを一周する遊歩道。
眠気冷ましにぴったりな散歩コース。州の花、アルバータローズが咲き始めています。
実は住宅街の中にあるのに、そう感じない作り。


キャムローズ
今年は蚊が酷く多く、本当の自然の中でのハイキングはかなり厳しいものがあるが、このコースは整備されているからか、蚊の量が少なくて歩き易かった。


キャムローズ
お年寄りや子供、車いすでも楽にお散歩出来る遊歩道は、1周して2キロ程度。

目が覚めたところで、帰路につきました。


それにしても、ワタスクウィンのパイオニア・デーのイベントは、気の毒になる程シケていました。
ある程度予想はしていましたが、やはり小さい町でお金も人材も足りていないのでしょう。
メインイベントは、多分レイノルズ・アルバータ博物館での『ヒストリー・ロード』と、夕方から始まった『ローハイド・ロデオ』ではないかと思います。夕方からのロデオでは、きっとビールも出て、町内のカウボーイが集まって身内的な盛り上がりになったのではないでしょうか。
レイノルズ・アルバータ博物館もこれで2度目だし、この先用事が無い限り、多分ワタスクウィンへ行く事はもう無いでしょう....



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最近あまりエドモントン記事がないけれど、今日も全くエドモントンとは関係ない、川越です。

埼玉県川越市
天正18年(1590)、徳川家康の関東入部に伴い置かれた川越藩。川越は江戸北部の守り、また豊富な物資の供給地として重要だったため、幕府は有力な大名をここに配置。その1人であった松平信綱により、新河岸川を利用した「舟運」(しゅううん)での江戸との物流を通し、川越は商人の町としても発達し小江戸と呼ばれた。
明治に入ってからは城下町の伝統もあり、川越は埼玉県第一の商業都市としても君臨。

ところが明治26年、川越は町の3分の1を焼失する大火にみまわれてしまう。そのときに残された建物が蔵だったため、建物の再建は火事でも燃える事の無い土蔵造りになった。現在川越市内の一角に商店街として残されている街並は、川越『蔵造りの街』として観光客の人気スポットになっている。
蔵造りには、昔ながらの商売をしている店もあれば、その伝統的な建物をモダンに改装した、小物や土産品、伝統工芸品、焼き物などの店も多い。
川越祭りは大江戸天下祭りの様式を今に伝え、国の重要無形民族文化財に指定されており、蔵造りの街は国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。


2009年のNHKの朝の連続テレビ小説『つばさ』の舞台となった事でも有名。(ただし、ドラマはかなり不評だったようですね?)


川越
蔵造りの街並。この一帯は電線が地中に埋め込まれているため、なんだかすっきり。


川越
川越名物火の見やぐら。

川越
火の見やぐら前の通り。


川越
大沢家住宅。呉服店舗蔵で、川越にある蔵造りの中では最も古い建物(1972年)で、国の重要文化財の指定を受けている。
建物内の見物もできるが、この日は休館だった。


川越


蔵造りの街並は駅から少々距離があるが、歩いても行ける距離。
表通りだけでなく、時間があるなら裏通りなども散策してみると、思いがけない面白いお店や風景に出会える可能性あり。
咬めば咬む程に味のでるスルメのように、歩けば歩く程に味わいのある街です。

アクセスは東京池袋駅から東武東上線の川越駅、または西武新宿駅から西武新宿線で本川越駅から。
どちらも急行で大体30分から45分。東上線の方が早い。


ちょっとご無沙汰していましたが、実は私現在日本に帰国中。
ブログがなかなかアップできないので、エドモントン帰宅までは気まぐれアップで行きたいと思います。
といっても滞在が短いので、来週にはもうエドモントン。
今、とっても寒いらしいですよ、エドモントンは。日本はポカポカで~す。

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7月1日はカナダ・デー(カナダ建国記念日)。 
カナダは1867年7月1日に、独自の政府を持つイギリス自治領となった。当時はノヴァ・スコシア、ニュー・ブロンズウィック、オンタリオとケベックの4州でカナダ国を形成。
1982年まではドミニオン(自治領)・デーと呼ばれていて、翌年83年から正式にカナダ・デーと改名。
完全独立国家となったが、カナダはイギリス連邦国家。エリザベス女王もしばしばカナダを訪問しているように、イギリスとは現在も深いつながりがある。

さて、長かったハリファックス滞在も終わりエドモントンに戻ったので、どこで祝日を楽しもうか検討した結果、8年ぶりにウクライナ文化遺産村(Ukrainian Cultural Heritage Village)に行く事にした。


ウクライナ文化遺産村は、エドモントンから国道16号線を東に45キロ程行った所にある。
1899年から1930年までの間に、アルバータ中央から東のあたりに開拓民として入植したウクライナ人たちの暮らしに触れる事が出来る、野外博物館。
当時カナダ政府は、アルバータ、サスカチュワン、マニトバなどの平原地方開拓のために、開拓者ひと家族あたり土地160エーカー(19万2000坪)を無料で提供していたそうだ。
移民はイギリス、ウクライナ、ロシア、ドイツ人などが多かった。最初は農民のみを対象としていたため、家造りなど大変だったらしい。


ウクライナ文化遺産村6
平原の中に、実際の村みたいに建物が建っている。
家の年代は、奥に行く程古い。


ウクライナ文化遺産村
貨物列車の駅と、穀物貯蔵庫。


ウクライナ文化遺産村2
ウクライナ・ギリシャ正教会。


ウクライナ文化遺産村7
教会の中。


ウクライナ文化遺産村3
こちらは、一番古い教会。
ウクライナ文化遺産村の中には、時代の異なる3つの教会があるが、全て現在もサービスが行われている。
この教会の上に乗っているドームは、初期の開拓民が全て農民だったため正しい建築知識が無く、どうやってドーム付きの屋根を建造して良いか分からなかったので、ドームを別に造って屋根の上に乗せただけなので、中に入ってもドームの中は見えない。


ウクライナ文化遺産村5
開拓民初期の家。思い切り狭いです。
家族5人くらいまでは一緒に住んでいたというのは驚き。
土地は限りなく広いが、何も無い所から自分たちで造る事が可能だった家。丸太と泥で出来ています。


村の各建物には当時の衣装を身にまとった案内人がいるのだけれど、皆その時代の人のふりをするのがおかしい。
例えば、『この家何年経ってるの?』と聞くと、『1910年に建てたから、17年だよ』とか、上の写真の土の家に住んでいる女性は、初期の開拓民だから英語が話せない(という設定な)ので、何を聞いてもウクライナ語プラス、身振り手振りだったり。
ただし、教会だけは現在も使われているためか、衣装はつけているけれど演技はしていない。


久しぶりのウクライナ村、ほとんど記憶に残っていなくて新鮮に楽しむことが出来た。
が、適度な広さでのんびり見て回れて良いと思うのだけれど、カナダ・デーのような祝日には昼時混んでいるのに、食べ物を売る店が少な過ぎ。
ピロギを食べようと楽しみにしていたのだけれど、たった一軒しかなくてものすごい長蛇の列な上、列が動く様子もなかったので諦め、しぶしぶ屋台のホットドッグを食べた。
スープ付きピロギとホットドックでは、食べ物の質に差が有り過ぎだし極めてがっかり。
混みそうな日には、お弁当持参がお勧めです。



帰る前に、レクレーション用の広場でエドモントン・クラシック・スポーツカー・クラブの集まりがあったのでついでに見て来た。
アンティークカー
車に特別興味が無い私でも、クラシック・カー見るのって結構面白い。



カナダの143歳の誕生日を祝って、応援クリックもどうぞ宜しく!

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